今朝は雨。
さすがに早朝診察に訪れる方も少なくて、ゆっくりと今書きたい本の資料を探すことができました。つれつれとつながっていくうちに、ラーマクリシュナに出会いました。お名前は知っていましたが、教えに触れたことはありませんでした。今朝、そのエッセンスに触れて、とても嬉しく思っています。
すべてがピッタリと、今の自分の想いと重なって・・・この雨雲の上の金色の輝きのやうに、うちなる至福感に満たされています。
神さまの新年(冬至明け)の贈りものですね。
感謝、感謝。
*******************
多くの宗教を遍歴したラーマクリシュナの教えは非常に寛容なものである。世の中の様々な宗教は究極の一なる神がそれぞれの時代と人に合わせて現れたもので、各々が意義を持つ。究極の一に至るために人は自分に合った道を行けばよいという。 彼は「宇宙の母なる神は子供たちのお腹に合うように料理を作って下さる」という喩えを用いている。子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な料理をこしらえるように、神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教を作るということである。
神は有形か無形かという論争などもラーマクリシュナにとっては上辺のつまらぬ対立に過ぎない。ブラフマンは無相無形であるが、人間の信仰の力、神への愛に応じて有形の人格神となって現れる。だから一見神は様々な形をとっているように思われるのである。ある1つの形をとった神が正しく、他の形が間違っているといったものではない。神の様々な形は神の人間への愛の現われなのだ。無性のブラフマンを知るためには自我を完全に滅却する必要があり、普通の人間には難しい。一方、有形で人格を持つ神の方は親しみやすい。人の個性は様々であるから、人と神との繋がりもまた様々である。神と繋がるための具体的な手段としては宗教儀式や偶像崇拝がある。迷信として非難される偶像崇拝もラーマクリシュナは「真珠を育成するために必要な母貝」として称揚する。それによって神を愛せるならば偶像大いに結構とするのである。
神に近づくための方法は様々とはいえ、神以外のものに目が向いているようではことは始まらない。世俗のことに夢中になりがちな人々にラーマクリシュナは盛んに警告する。特に金と女に心を奪われているものを非難する。人望、学問、その他細々としたことも神に比べればくだらないことばかりだという。絶対の価値を知った人間にとって、相対的な価値はもはや無意味ということだ。
世界はすべて「神」そのものであるから「私」などというものは本当はないという。しかし我執によってそれが分からなくなってしまう。「私のもの」「私の行為」という無知から来る考えによって。私とは本来神の道具のようなものに過ぎないとラーマクリシュナは説く。
神は全ての人のうちにいる。しかし全ての人が神のうちにいるわけではない。これが人々の苦しむ理由である。「私」と「神」を分離している無知が「私」を苦しめるのだ。しかし肉体として生きる限り「私」を完全に消すのは難しい。ならばせめてその「私」は神に委ねよとラーマクリシュナは述べる。神に全てを委ね、神を愛するバクティ・ヨーガの道が普通の人間にとっては最も易しい。自己を制して欲望を超越しようとする他のヨーガは強い精神を要する困難なものだ。バクティは意識的に欲望を抑えるのではなく神への愛に夢中になって感覚の楽しみを忘れるのである。バクティは自然に欲望を食いつくす。
神の下で休らっているラーマクリシュナは楽観的だ。世界は神の遊戯であるという。神は何かの目的があって世界を造ったのではなく、遊びとして世界を造った。善と悪、幸と不幸などの対立があるのもゲームを続けるためということになる。あらゆるものは神の働きなのだから、全てを受け入れる。それが神である限り、世は幻だといって切り捨てたりしない。彼にとって神の遊戯活動も永遠不動も同じものであり、皆ありがたく戴くべきものである。「皆戴かないと目方が減るもの」と彼は言う。
現世志向というわけでも、来世志向というわけでもない。ラーマクリシュナはただひたすら神志向であったといえる。神だけが実在で、他は全てはかない幻。どんな形であってもよいから神を信じ、愛し、我が物にすることだけに心を注ぐべしというのが彼の核心的な教えであった。
さすがに早朝診察に訪れる方も少なくて、ゆっくりと今書きたい本の資料を探すことができました。つれつれとつながっていくうちに、ラーマクリシュナに出会いました。お名前は知っていましたが、教えに触れたことはありませんでした。今朝、そのエッセンスに触れて、とても嬉しく思っています。
すべてがピッタリと、今の自分の想いと重なって・・・この雨雲の上の金色の輝きのやうに、うちなる至福感に満たされています。
神さまの新年(冬至明け)の贈りものですね。
感謝、感謝。
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多くの宗教を遍歴したラーマクリシュナの教えは非常に寛容なものである。世の中の様々な宗教は究極の一なる神がそれぞれの時代と人に合わせて現れたもので、各々が意義を持つ。究極の一に至るために人は自分に合った道を行けばよいという。 彼は「宇宙の母なる神は子供たちのお腹に合うように料理を作って下さる」という喩えを用いている。子供の消化力や好みに合わせて母親が色々な料理をこしらえるように、神は国と時代と容器(人の理解力)に応じて色々な宗教を作るということである。
神は有形か無形かという論争などもラーマクリシュナにとっては上辺のつまらぬ対立に過ぎない。ブラフマンは無相無形であるが、人間の信仰の力、神への愛に応じて有形の人格神となって現れる。だから一見神は様々な形をとっているように思われるのである。ある1つの形をとった神が正しく、他の形が間違っているといったものではない。神の様々な形は神の人間への愛の現われなのだ。無性のブラフマンを知るためには自我を完全に滅却する必要があり、普通の人間には難しい。一方、有形で人格を持つ神の方は親しみやすい。人の個性は様々であるから、人と神との繋がりもまた様々である。神と繋がるための具体的な手段としては宗教儀式や偶像崇拝がある。迷信として非難される偶像崇拝もラーマクリシュナは「真珠を育成するために必要な母貝」として称揚する。それによって神を愛せるならば偶像大いに結構とするのである。
神に近づくための方法は様々とはいえ、神以外のものに目が向いているようではことは始まらない。世俗のことに夢中になりがちな人々にラーマクリシュナは盛んに警告する。特に金と女に心を奪われているものを非難する。人望、学問、その他細々としたことも神に比べればくだらないことばかりだという。絶対の価値を知った人間にとって、相対的な価値はもはや無意味ということだ。
世界はすべて「神」そのものであるから「私」などというものは本当はないという。しかし我執によってそれが分からなくなってしまう。「私のもの」「私の行為」という無知から来る考えによって。私とは本来神の道具のようなものに過ぎないとラーマクリシュナは説く。
神は全ての人のうちにいる。しかし全ての人が神のうちにいるわけではない。これが人々の苦しむ理由である。「私」と「神」を分離している無知が「私」を苦しめるのだ。しかし肉体として生きる限り「私」を完全に消すのは難しい。ならばせめてその「私」は神に委ねよとラーマクリシュナは述べる。神に全てを委ね、神を愛するバクティ・ヨーガの道が普通の人間にとっては最も易しい。自己を制して欲望を超越しようとする他のヨーガは強い精神を要する困難なものだ。バクティは意識的に欲望を抑えるのではなく神への愛に夢中になって感覚の楽しみを忘れるのである。バクティは自然に欲望を食いつくす。
神の下で休らっているラーマクリシュナは楽観的だ。世界は神の遊戯であるという。神は何かの目的があって世界を造ったのではなく、遊びとして世界を造った。善と悪、幸と不幸などの対立があるのもゲームを続けるためということになる。あらゆるものは神の働きなのだから、全てを受け入れる。それが神である限り、世は幻だといって切り捨てたりしない。彼にとって神の遊戯活動も永遠不動も同じものであり、皆ありがたく戴くべきものである。「皆戴かないと目方が減るもの」と彼は言う。
現世志向というわけでも、来世志向というわけでもない。ラーマクリシュナはただひたすら神志向であったといえる。神だけが実在で、他は全てはかない幻。どんな形であってもよいから神を信じ、愛し、我が物にすることだけに心を注ぐべしというのが彼の核心的な教えであった。





